00.このとき越えた大分水嶺
地図00−25.乗鞍岳(長野県)
乗鞍岳(3026m)、大分水嶺の最高峰。岐阜県と長野県に跨がる活火山。日本の火山としては富士山(3777m)、御嶽山(3064m)に次ぐ高さで、複数の火山が南北に並ぶ複合火山である。
Wikipediaによると――”1949(昭和24)年に岐阜県道の観光道路として標高2702mの畳平までバスが運行されるようになると、大衆化し「雲上銀座」と呼ばれ観光地として賑わった。”――とある。
その後、登山バスよりもマイカーの方が多くなり、いまはマイカー規制中。平湯峠からは、マイカーからバスに乗り換えなければならないいう。
地図25−a.分水嶺の流れ 野麦峠から乗鞍岳・剣ヶ峰まで
ヤマケイ文庫・堀公英著、『日本の分水嶺』にはこのコースについて次のようにある。
――県境尾根には一応登山道があり、乗鞍岳まで4〜5時間ほどの行程で大分水嶺上を歩いていける。しかしながら1400mもの標高差があるうえにかなりのヤブこぎを強いられる未整備のコースだけに、熟練者以外は立ち入らないほうが無難であろう。――
観光バスが走る平湯峠からの北側とは大きな違いである。そのバス道路も大分水嶺沿いかと思いきや、野麦峠からの大分水嶺は南側から乗鞍岳の最高峰・剣ヶ峰(3026m)に達した後、あたかもスイッチバックをするようにバックを始め大きくターンをしてさらに日影平山を目指して北西に向かっていく。
さて本項コース、の野麦峠から乗鞍岳・剣ヶ峰まで、直線距離で7,6Km、分水嶺に沿った実測距離でも10.6Kmほどである。
25-b. 乗鞍岳
北アルプスの槍沢を源として穂高連峰の東側を流れる梓川、同じく西側の谷を流れ下る蒲田川、どちらも南に向かって流れ下り、うっかり見ていると大平洋へ流れ下るように見える(右下地図参照)。しかし、梓川は上高地を過ぎると東へ東へと向きを変え、安曇野へ出たころには犀川と名を替え北へ向かって流れている。その後はご存じ千曲川、信濃川と名を変え日本海へと注ぐ。一方、穂高の西を流れる蒲田川は山峡を抜けると、西へ西へと向きを変え、名を高原川と変えて、高山市の市街地を抜けてきた宮川と合流、神通川となって富山湾へ注ぐ。結果的にはどちらも日本海流域の河川ということになる。
さて、左の写真は笠ヶ岳(穂高の西)から見た乗鞍岳(左手前)と御嶽山(右奥)である。残念ながら左側が見えないが、おそらく左右対象に広がっているであろうと考えられる。乗鞍岳のこの裾の広さ。これがなかったら恐らくいま穂高連峰の東西を南に向かって流れる梓川と蒲田川は、恐らくそのまま南に向かって流れ続け、太平へ注ぐことになっていただろう。当然今乗鞍岳を横断している大分水嶺は、槍ヶ岳の東鎌尾根と西鎌尾根にとってかわられることになっていたはずである。
25-c. 登山バス道路のこと
乗鞍岳のバス道路は、たしか山頂付近にあるコロナ観測所建設のためにつけられた道路を転用したものだったと聞いた。そのコロナ観測所は、1949(昭和24)年 、 東京大学東京天文台の附属施設として完成というから、その仕事の終わった道路をちゃっかりと利用したことになる。そのコロナ観測所の着工がいつだったのか。戦後4年。われわれ日本人はブルドーザーなんてものを見たこともない時代である。着工がいつだったのかわからないが、とにかく戦後4年にして完成したことに驚く。
また、深田久弥著『日本百名山』(新潮社版)・「乗鞍岳」の項には次のようにある。
――戦後、頂上まで登山バスがついたことは一つの驚異であった。街を歩く恰好で三千米の雲の上を散歩出来ようとは、誰が予想しただろう。しかし自動車道がついたためにその道路から外れたところは却って寂れて、本当に山の好きな者に静かな場所を残してくれることになった。
現在、夏の頂上はちょっとした繁華街のおもむきを呈しているそうだが(私はまだ知らない)、しかし乗鞍の全体はバス道路ぐらいで通俗化するようなちっぽけなマッスではない。これほどの豊かさと厚みを持った山も稀である。四ッ岳から大丹生岳、恵比須岳、富士見岳、乗鞍主峰と続く広大な山域には、多くの山上湖があり、森林があり、高原がある。――
そうか、そういう見方もあるのか。繰り返すが、大衆化したのは事実だが、そのバスの運行開始が昭和24年と聞くとホンマかいなと思う。敗戦後4年、私は高校1年生だった、それもわざわざ”新制高校”といわなければ、ただの「高校」だけでは旧制高校と間違われるような時代だった。そのころにこの山の上を観光用のバスが走っていたとは。
23-d. 1961夏・乗鞍岳
1961夏・乗鞍岳
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1.剣ヶ峰をバックに |
2.雲来たる
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3.雪渓で |
4.槍穂高遠望 |
初めて乗鞍岳へ登ったのは1961(昭和36)年夏だった。Wikipediaによると、乗鞍岳への観光道路開通が1949(昭和24)年だという。私が高校1年生のころで、パン屋でパンを買うにもクーポンを持って行かなければ売ってくれない時代だった。当時の世相を考えれば、この登山道路開通はほんまかいなと思う。初めて焼岳や西穂高へ登った1955(昭和30)年、帰途に乗鞍へとスケジュールを組んでいたが天候の都合でアウトになり、この1961(昭和36)年が初めての乗鞍だった。深田久弥がいう”ちょっとした繁華街のおもむきを呈している山”へその中の一人として。もちろん山頂まで行ってそこの祠の写真も撮ったはずだけど、いま、その写真は見つからない。
急に話が変わる。右の地図はそのときのものである。畳平バスプールから頂上まで歩いた県境沿いコースを赤で示している。横書きの字はすべて”右書き”、まさに国宝級(?)のすごいやつである(* 下参照)。なぜ急にこんなものを持ちだしたのか。・・・「剣ヶ峰」である。このシリーズのタイトルは『知らずに越えた大分水嶺』。この乗鞍岳と大分水嶺とのかかわりは?。上の地図25−aに見るように南の野麦峠から来た大分水嶺は、剣ヶ峰に立ち寄っただけですぐにスイッチバックをするようにして西へ去ってしまう。畳平から剣ヶ峯までの登山道は尾根道ではあるが単なる県境であって大分水嶺ではない。登山者は剣ヶ峯に立って初めて大分水嶺に立つことになる。剣ヶ峯の祠の写真は大分水嶺に立った貴重な証拠品なのである。その写真が見つからないいま、それを証拠つけるものは当時の地図が唯一のものとなる。
*大正元年測量昭和5年部分修正(一部略)昭和二十八年応急修正・・・とある。定価三十五円。実物ではこの「定価」も右書き。読むのに苦労した。嘘か本当か知らないが、航空写真もアメリカ軍に依頼して撮ってもらっていたとか、「日本の道は”道”ではない。あれは全部”道路予定地”だ」とアメリカ兵が言ったとか。戦後の日本が貧しかったころの話である。
25-e. 乗鞍岳遠望
乗鞍岳遠望
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1.笠ヶ岳山頂付近から |
2.高山市郊外
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3.高山市郊外 |
4.高山市郊外 |
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5.高橋尚子記念碑前 |
6.日和田ハイランド |
7.開田高原 |
8.開田高原 |
1.笠ヶ岳(穂高連峰の西)から見た乗鞍岳(左手前)と御嶽山(右奥)である。撮影は1960年8月、半世紀以上前の写真である。烏帽子・三俣蓮華・双六・笠と歩いて、最後蒲田川沿いへ下る途中である。上で見てもらった写真と同じ場所からであるが、横長になったため左手前の焼岳まで見える。カシミール図。なお、焼岳の奥に見える遠景の稜線(写真ではごく淡くにしか見えない)は、木曽駒ケ岳を主峰とする中央アルプスの稜線である。
この幅の広い2つの火山には圧倒されたが、この乗鞍岳(右から2つ目のピーク)を大分水嶺が通っていることなど当時は考えても見なかった。
2.”高山市郊外から”としているが、具体的には江名子町あたりである。御嶽山麓の開田高原から国道361号を走り、高山市街地に入る少し手前である。ここからは乗鞍岳のみならず、
槍・穂高連峰、笠ヶ岳など、さらには黒部五郎、薬師辺りまで展望できる。カシミール図。
3.”高山市郊外から”、上と同じ江名子町あたりかと思われるが、確たる場所は読み取れない。
4.”高山市郊外から”。交差点から乗鞍岳が見える。国道361号で、”左・美女峠、右・木曽福島、高根”とある。撮影年月日は不明。しかしどことなく工事中の雰囲気がある。そういえばどこをどう走ったのかは記憶にないが”美女峠”を越えたことがある。とにかく地図で美女峠から逆走して美女橋を渡ったところの”甲交差点”をポイントとしてカシミール図を描いてみたら、写真とほぼ同じ図が出てきた。どうやらここで間違いはないらいい。撮影の時点では361号のルートがやや旧く、現在では361号は新しいトンネルを経由するルートに改められていたらしい。
5.”飛騨御嶽尚子ボルダーロード碑前”。前項参照。
6.”日和田ハイランド”。開田高原から国道361号長峰峠を越えて高根町日和田陸上競技場から撮影。
7.”開田高原”。開田高原西野、国道361号が、西野川を渡るのに、その川を少しさかのぼる。その橋の近くから撮った記憶があるのだが、はっきりした場所不明。
8.”開田高原”。開田高原であることは間違いないが、その中のどこかといわれると完全に場所不明。直線道路の奥に雪の乗鞍がひょっこり見えた。
25-e. 附録:夏山時刻表
濃飛バスの1963(昭和38)年「夏山時刻表」が5万分の1の地形図に挟まって残ってた。どこへ行ったときのものか調べてみたが、秋に西穂の独標まで夜行日帰りをしているだけ。夏に、どこかで面白半分にもらってきたのだろう。ざっと乗鞍に関するものを挙げると高山・乗鞍線、神岡・乗鞍線、蒲田・乗鞍線、上高地・乗鞍線と細分化されている。1963年というと、「東海道新幹線開通・1回目の東京オリンピック開催」の前の年に当たる。バスのルートも細かく丁寧な時代だったと思い返している。
25-f W.WESTON(1861〜1940)『日本アルプスの登山と探検』より「乗鞍岳}一部抜粋。(あかね書房『日本山岳名著全集』)
ーーぼくたちの計画としては、南から飛騨の国へ入り、西側からその山系にとりついて最高峰のいくつかを登り信州松本へ下りるつもりであった。こうすればあの山系の南部から中部にかけての概念がよく呑み込めるしこの前失敗した槍ヶ岳登山をやり直す機会も得られるはずだ。そういうわけで、8月1日の午後、ぼくとミラー博士は岐阜で汽車を降り、飛騨の高山まで80マイルの旅にのぼった。飛騨は高い山で四方を囲まれているので、遠く人界をはなれた「島の国」と呼ばれている。また封建時代に大名や侍のいなかった唯一の国でもある。風景が壮大である上に原始的風習が残っていることでも知られており、日本のどこよりも西欧文明の影響を被ることが少ない。ーー(高山は天領だった)
ーーここを過ぎると、何の理由もないのに、とつぜん川の名前が変わる。こういう例はほかにもあって人を惑わすものであるが、日本人が地理上の名前をつけるときによくやることである。この川が乗鞍岳の高いところにある緑の池、すなわち大池から出るときは、初め阿多野郷川(あだのごうがわ)と呼ばれているが、それが大きくなると久々野と小坂の間で益田川という名前に変わる。この川がいちばんよく知られている飛騨川という名前になるのは、生国である飛騨を離れて美濃の国にはいってからである。そして最後に、太田の近くで中山道に達すると、これという名前がなくなってしまう。川はここで木曽川に合流し、ほどなく尾張湾に流れ込む。ーー(いや、ほんと。川の名前が勝手に変わるのには悩まされる。)
ーー長い雪渓を登りつめて鞍部に達すると、尖った岩の峰にとりまかれた長さ400ヤードぐらいの池が見えた。池のすぐ先の岩の間に、天然の洞穴があった。高度は9000フィート。ここで朝食を済ませてから、稜線の上を頂上まで豪快に登攀した。左の方に空き小屋が見えたが、それは室堂といって、信州側の大野川から登る人たちの休憩所である。その上の岩場をトラバースすると尖ったアレートの上に出た。さらにその上を北に進むと乗鞍の北峰に達する。乗鞍は双峰で、馬の鞍のような形をしているところから、この名前が付けられたのである。この峰の中では北側にあるのが最も高く、一万百六十フィートである。日本アルプスの秀峰を一望のもとに収める喜びは、こうして登山したものでないとわからない。ーー頂上部の高さに間違いがあるようだ。現在の地図では3つの峰が南北に並んでいる。いちばん南の摩利支天岳がいちばん高い。南側から登っているらしいので、ひょっとしたら”高天ヶ原”を南の峰と考えていたのかもしれない。それだと話は合う。
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